殴ったら殴られるかもしれない、と思う人は多い。だから、殴ったとしても「ごめんなさい」とは言わない。なぜ殴ったかを理路整然と説明しようとする。特に手を出した人はそう思う。周囲が承認してくれたら「正義の拳」だが、やはり暴力には違いがない。
広島原爆投下から65周年の今年、秋葉市長の演説は広島弁で始まった。多分「こんなひどい目にあう人を再び出してはいけない」というような意味だろう。ルース駐日米国大使はこれを神妙な顔つきで聞いていた。アメリカ国内には、式典への参加は日本への謝罪につながるのだという論調があるのだという。今回はイギリス、フランスの代表と歩調を合わせたといい、長崎に出席するかどうかは分からないそうだ。
アメリカ側から見た日本の「恐ろしさ」は、日本が謝罪を一切要求しないことだろうと思われる。殴った相手が、パーティーに出席しろと言ってくる。いつ殴られるか分からないと思いながら、仲間に「参加する?」と聞いてみる。しかし殴った相手は怒っている様子がなく「僕は殴られたが、今後そんな被害者は出してはいけない」という。
日本人側は、どうやらアメリカがそんなに嫌いではないようだ。そもそも65年前にアメリカと日本が戦争をしていたことを知らない人たちも多いみたいだ。なおのこと訳が分からなくなる。これが実は強みになっている。恨みの気持ちがあまりないので、当事者ではなく、違った視点からこの問題に取り組むことができるのだ。
考えてみれば「赦す」というのはキリスト教の中心教義なのだが、実践が難しい。アメリカは民主主義を広めるのだという理念のもと、アフガニスタンに手を出し、イラクにも侵攻した。彼らは理由があって殴ったのだと考えている。どこの政府も表立っては批判しないが、気がついてみるといろいろな人から恨まれているようで「いつ殴りかえされるか分からない」という恐怖も感じているのだろう。加えて、一度介入した戦争から抜けられなくなっており、兵士の士気も下がって来ているのだそうだ。
核兵器も一度使ってしまうと、各国で開発が始まることは目に見えている。「一発どかん」とアメリカに核が落ちる可能性だってあるから、押さえ込んでおきたいわけだ。殴ったら、かなり長い間、殴り返される覚悟をしなければならない。
こうした対立は至る所にある。Wikipediaによると、ルワンダでは100万人が殺された。ニュースに詳しい人であれば「ああフツ族とツチ族の対立でしょ」という人がいるかもしれない。しかし実際には「フツ族」と「ツチ族」という人種は存在しないのだそうだ。こちらもWikipediaによると、ベルギー人が統治しやすいように人工的に鼻の高さと牛の所有頭数から民族を分断したのが、ことの始めなのだという。しかし、いったん区分ができてしまうと人々はそれを当たり前のように信じるようになる。いったん殺し合いが起こると、やめるのはなかなか難しい。キルギスではウズベグ人に対する迫害が起こっているというのだが、このウズベグ人という概念も20世紀になってからできたものだという。
くり返しになるが、一度はじめた暴力、でき上がってしまった「俺たち」と「あいつら」、はじめてしまった戦争はやめるのが難しい。それを維持するためのコストは膨大なものになる。バカばかしいと思ってもやめることはできない。
こういうときに効果があるのは「きれいごと」だけだ。赦してあげるから、もうバカなことはやめようという姿である。はじめた方だってやめたいと思っているわけで、恐る恐るとはいえおつきあいせざるをえなくなる。「きれいごと」だから否定のしようもない。日本がこうした姿勢を取る事ができるのは、「壮大なきれいごと」とも言える憲法第九条をアメリカから押し付けられたからだ。
中国が攻めてきそうだからという理由で軍隊を持った方がいいという人がいる。実際に南シナ海を狙っているようだ。北朝鮮もどうやら危ないみたいだ。今回の菅直人さんの「それでも日本はアメリカの核の傘の下で」という発言に対して、こうした文脈を意識するものだと評価する人たちもいる。しかし、中国の動きを警戒しているのは日本とアメリカだけではない。中国はこれを2国間協議に持ち込みたい。しかし防衛する側からみれば、多国間パネルを作り協定した方がよいだろう。日本が軍隊を持つよりも、日本はこうした軍事行動を放棄しているのだからと「きれいごと」をいいつつ、相手にきれいごとを迫るという手もある。こういうやり方は「ずるい」けれどもやり方によっては効果があるだろう。
どうやら秋葉さんの演説に人気がないのは、この人が社会党のヒトだからのようだ。アメリカは批判するのに、北朝鮮を批判しないというような意見がある。冷戦が終ってかなりの時間が経過したが、国内にはまだ「左派」「右派」という対立構造があり「右派」の人たちには気に入らない存在のようだ。右側の人たちは彼らを「左翼」と呼び、左翼の人たちは、保守主義系のヒトを「右翼」と呼ぶ。やはり一度できてしまった対立構造を乗り越えるのはなかなか大変みたいだ。過去の歴史を持ち出して、左翼の人たちは「左翼は反米活動の一貫として反核運動を政治利用したではないか」というのである。これは確かにその通りなのだろう。
このように、政治家は国内事情や支持母体を睨みつつ、どう発言するかを決めることになる。しかし一度起きてしまった対立構造は時間が経過するに従って深刻化する。これを克服するために、あいまいな構造やきれいごとを使うのが、アジア的な伝統だ。中国では海峡を挟んで、国民党と共産党が対立しているのだが、一方ヒト、カネ、情報が行き交う。朝鮮半島ではもう半世紀も休戦状態が続いているのだが、韓国は経済的に発展した。日本もこうした曖昧文化圏にある。
国内の細かい対立を乗り越えてリーダーシップを発揮すべきだろう。多分、賛同してくれる国は多いだろうし、いったん流れができてしまうと大国といえども抗うのは難しいはずだ。
記事一覧 :: 議論と対話のその他の記事