2人の子どもを見殺しにした母親について文章を書こうと思い、ちょっと調べてみた。もともと調べたかったのは、お父さんの系統の人と暮らしても虐待される可能性があるが、お母さんの系統と暮らすと可能性は激減するという、以前どこかでみた資料だった。お母さんがお父さんと分かれて別の男と暮らすようになると、子どもが邪魔になる(父親は自分の遺伝子を残したいと考える。母親は自分の遺伝子を残したいわけだから、今いる子どもを育てるか、新しく育て直すかの選択をする)から、殺してしまう可能性がある。
週刊誌を読んだ所、この大阪のお母さんはどうやら母系の援助が得られなかった様子だ。祖父は「厳格な教育者」(これがちょっとした問題だと認識されているようだ)だったが、すでに祖母と別居している。父系の祖父母とはやり取りがあったのだが、それも離別とともになくなる。孤立無援となったが、幸運なことに男性にモテる母親は、自身の遺伝子を残す戦略を切り替えた、というわけだ。読んだ雑誌はすべて男性向けの週刊誌だ。男性の価値観は子育てには「ほとんど無力」と言ってよい。故に、お母さんの両親を責めるようなニュアンスを残しつつ「日本の家族が崩壊しつつある。嘆かわしい」といったような論調になっている。
ところがもう少し調べてみると、殺害件数そのものは減りつつあるのだそうだ。虐待の認知件数そのものは増えているので、一瞬「?」という感じになる。これは、つまり「子どもの顔が腫れるまで殴りつける」とか「おなかが空いて死にそうになるのにほったらかしにしておく」くらいのことは、虐待だと認識されていなかったのだということを意味しているように思える。日本は、そもそもが子どもの窮状については無関心な社会なのだ。
加えて、我々の社会が辿って来たあまり見たくない一面が見えてくる。戦前は「子どもの間引き」が行われていた。有料で引き取りますという新聞広告もあったそうだ。表面上は里親ということになっているのだが、あとはどうなったか分からない…というような話もあったようだ。ほとんど粗大ゴミと同じような扱いだ。
さて、この事件、どこに問題点があるのかによってその後の動きがまったく違ってくる。
- 日本は物質的には豊かになったが、大切なココロを失ってしまったと嘆きたい場合。解決策を導く必要はない。こうした事件はまた起こるだろうから、嘆いてみせれば良い。
- 「日本論」として論じたい場合。出生率の低下は国力の低下につながる。バカ親が増えてきてどうしようもないから、社会が監視すべきだと主張する。この場合は監視にかかるコストと将来一人の子どもが生み出すであろう税収を比較した表でもつくるのがよいだろう。
- 子どもは一つの人格であるのだから、大事に育てられなければならないという価値観の問題。個人的には、これが重要なのだと思える。しかし、日本の言論空間ではこうした声は無視される傾向にある。経済性に比べて、精神性は重要でないとされる傾向がある。実際、すべての人間は大切にされたいと考えている。自尊心が育たなければ壊れてしまう。故に子どもも大切にあつかってやるべきだ。
あまり、人気がないだろうと思えるのだが、最後の趣旨に沿って話を進める。
このお母さん、最初にはブログで「子どもがかわいい」というような事を書いていた。本来、こういったことは家族や地域の人に向かって言う事なのだろうが、その点は置いておこうと思う。ほとんど、手に入れたバッグや、きれいにしたネイルを自慢するように聞こえなくもない。しかし、事情が変わってあまり関心が持てなくなる。実は、このことが今回の問題の一つの大きなポイントになっている。日本人は、子どもを親の所有物だと考える傾向にあるのだ。
所有物というとなんだかとてもわがままに聞こえる。例えばきれいにしたネイルもバッグもただのモノではない。その人の一部のようなものだ。同じように子どももその人の一部なのだ。これを「甘え」の構造 と呼ぶ。自己と子どもが一体化しているのである。こうして人格を分離しないで育てると、集団の価値観と自分の価値観の区別が曖昧な大人が生まれる。これは一概に悪い事ではない、とされる。「自分」と「相手」が異なるのだと考える事を、「水臭い関係」と呼ぶ。他人行儀で、よそよそしい。こうして「親と子」が相互に依存する形で育った子どもは家族との一体感が強いとされる。一方、親密さのない「個人主義的」な環境には弱い。この乖離が「内向き」な日本人を生んでいる。社会が不確実化すると親密な関係を求めて小さな集団を作る。それでもダメだということになると、こんどは「孤立感」を深める。運がよい人たちだけが「個人主義的でドライな人間関係」に目覚める。
健全な親(自分に満足しているということだろう)が子どもを育てると、この相互依存はとてもうまく行く。しかし、不安を抱えている親は、自身の不安を子どもにぶつけることになる。そして無気力な親は、子どもにその無気力さを子どもにさし向ける。もともと親のものという発想が強いので、地域行政はなかなかその領域に踏み込めない。
話がややこしくなっているのは、こうした背景があまり理解されないまま、いくつかの価値観がないまぜになっているからだ。ここにアメリカやヨーロッパの制動や考え方を持ってくると話がますますややこしくなる。
- 「個人主義」(私の価値は私の努力の成果だ)という考えが浸透して来たにも関わらず、相互依存的な家族観も残っている。
- 少子化が進みこのままではいけないと思いつつも、子どもは親の所有物であり、教育など自己責任でやるべきだという価値観からも脱却できない。
この母親が日本社会でうまく子どもを育てるためには、母系の支援を受けるしかなかった。このケースでは、もともとそれが失われているわけだから、一方的にそれを責め立てても問題の解決にはならない。父親には「教育はこうあるべき」という理念がある。理念があることは問題ではないのだが、子どもの形に沿ってそれを修正するという共感作用は弱かったのだと思われる。さらに深刻なのは、日本の伝統的な価値観が崩れているからこうした問題が起こるのだと主張する人たちだ。もともと子どもを殺しても「親の所有物なので問題ない」と考えていた社会だった。子どもには適切な教育投資をして将来困らないようにしてやるというのは、東アジアにあるよい伝統だ。しかし裏返せば「他のヒトのところの子どもについては関心を払わない」ということでもある。
政治が唱う「子どもは社会で育てる」という理念と私たちが伝統的に培って来た「子育て感」には大きな隔たりがあることがわかるだろう。私たちは決して「子どもは社会が育てるものだ」とは思っていなかったのだ。
さて、この問題の一番の被害者はゴミの山に囲まれて死んで行った子どもたちであることは間違いがない。やはり人道上重大な犯罪だ。児童虐待による殺人が減って来ているとはいえ、社会的に放置してよいということにはならないだろう。これを解決するのに、伝統的な家族観はほとんど無力だ。まず、私たちの社会が持っていた子育て観をあらためて見つめ直し、それが現在でも通用するものなのかを考え直さなければならないだろう。子供たちは救われるべきだが、そのために兆候のある母親を責め立てても問題の解決策にはならない。