倉本聰さんの帰国を見た。ドラマとしては面白くなかったが、見所は他にあった。

まず集団主義について定義しておこう。ここでは集団の構成員が「私」「あなた」という垣根を越えて、同じ気持ちや価値観を共有することを集団主義とする。お互いが違った価値観を持っていることを前提にして、自分の価値観が相手に分かるように説明しようと試みるのが個人主義とする。もちろん他にも定義はある。

帰国にはいくつかの集団が出てくる。恋人からはじまり、家族に行き着く。それが大きく育ったものが「国家」だ。英霊というのはこの集団のために自分の夢(スポーツ、音楽、絵画)を諦めた人たちだ。

これを端的に示したのがビートたけし演じる英霊である。田舎から妹と一緒に出てくる。妹の成功を喜び、戦地で亡くなる。そして英霊として帰還して、死にそうになりながら病院につながれている母親を見捨てた息子をフジツボ付きの短剣で殺してしまうのである。

スペシャルドラマなので、石坂浩二演じる息子がどのような変遷を辿り、母親を顧みなくなったのかは語られない。英霊は(もちろん死んでいて)話しかけることはできないので、石坂浩二は弁明できない。状況は狂言回しになっている亡霊から聞かされることになる。つまりビートたけしは、伝聞と目の前に繰り広げられている状況だけを見て、殺人を犯すのである。

「集団主義における殺人ってこういう具合に起こるのだ」というのは見ていて面白かった。通り魔的な殺人でも同じ事は起こりえる。集団主義では自らを犠牲にする代わりに、自分が持っている価値観を相手が当然持つべきだと考えてしまうのだ。

共通した価値観を持っていて合意が形成されているとき、この相互依存的な考え方は問題にならない。しかしいったん孤立が始まると、この事が大きな問題になる。このドラマでは「若者」が出てくるのだが、一様に無表情で、共感が感じられない。もともと亡霊には生気がないのだから、光と音はけばけばしいが、全体に生気のないシーンが展開される。たぶん作者からは本当にこのように見えるのだろう。

東アジアに広がる「血族集団文化圏」が、日本で成立しなかったのはどうしてかというのは、なかなか解けない問題だ。氏族集団が早いうちに分解したのは明確な敵がいなかったのかもしれない。企業体としての家族は残るのだが、これも企業に取って代わられることで、戦後分解してしまった。社会学者の中には、依存する中間共同体がなくなってしまったことが、現代の問題だと考える人もいる。倉本聰さんのドラマの問題もこの延長にある。

例えば税制は「家族」を単位にしているのだが、実際には夫と妻という個人を単位にした状態に変質しつつある。結婚する人も減り、独居老人世帯も多い。「構成員が一人しかいない家族」が増えている。こうした「集団主義」と「個人主義」がないまぜになった状態は至る所に存在する。自己責任といいつつも、いちいち話をしなくてもすむ親密な関係を求めるといった具合だ。

個人主義的な競争と相互扶助に基づいた「護送船団方式」が混在する様子を見ていると、なぜ集団主義が崩壊して行くのかがわかる。大抵の場合、変化に対応できなくなったり、自己修復の機能を失って行くのである。

日本が近代化できたのは、早くから血族集団のしがらみを離れて「優秀な人を採用する」システムを採用できたからなのだと思われる。このまま個人主義に行き着くというわけではないらしい。また家族的な集団主義に立ち戻ろうとしても、家族集団が持っていた基本的な機能の一部は失われている。

許容したり、相手を理解したり、自分の気持ちを相手に伝えたりといった、個人主義の社会が持っている文化を習得する必要があるだろう。いやがる相手の権利をむりやり奪って家族的な関係の中に押し込めたり、霊を使って気に入らない相手を殺すよりも、よほど生産的なのではないかと思う。

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