英語公用語化を巡る非論理的な議論は、日本語が非論理的な言語だから起きるのだろうか。

楽天が英語を社内の公用語にしたということで、話題になった。この話題に乗じてLinkedinの「Nihongo de リンクドイン」にて議論をしてもらうことにした。どうやら参加しやすい議論だったようでたくさんの参加者が集った。しかし、この議論どうもおかしいのだ。

最初「英語公用語化否定」で参加してみた。最初は意見が寄せられなかったものの他の場所で議論が進むにつれて、意見が集り出した。すると「このグローバル化の時代に何をいっておるのだ」というおしかりの意見が寄せられた。続いて外国人から「日本人の内向きさにはうんざりなので、いまこそ解放の時」というような意見が出てくる。こちらの意見は英語で寄せられた。

最初の一群の人たちは「風向きを読んでから自分の意見を決める」という意味で日本人らしい行動を取っているものと思われる。ということはグローバル化時代だから、言語が英語になるのは仕方がないという風潮が芽生えているのかもしれない。続いて、日本人の「内向きさ」と「曖昧さ」にうんざりした外国人マネージャー層が、いっそ社内言語が英語化すれば、状況は変わるに違いないと思っているのではないか。

その内「日本語は非論理的だ」というこれもおなじみの議論が出て来た。これに反論したところ、そもそもロジカルであるというのはアングロサクソンの属性であるので、英語を受け入れるということは、アングロサクソンの属性を受け入れるという事だという意見が返って来た。(これは日本語)

いわゆる「ガイジン」と呼ばれる人たちから、日本人が内向きに見えるというのは本当らしい。自分たちの論理や相互依存的な人間関係が通じる場所ではおしゃべりな人たちも「こうした理論が通じるだろうか」という世界では寡黙になってしまう。これの裏返しが「生き残るためには、相手の思考方式を丸呑みしてしまうしかない」という、白か黒の世界を作ってしまうのだろう。

「さて、それでは、英語公用語化はこのディスカッションの総意らしいから次の話題に移ろう」と提案してみた。英語を公用語にするのは、外国に打って出ようとしているのだから、そのためにどんな努力をしているのかと聞いてみたのだ。日本人は「どうあるべきか」という議論は好きだが「私は何を実践して、これを実現した」という議論は不得意だ。これで机上論を排除できるだろうと踏んだわけだ。しかも英語で話したい人たちなのだろうからということで、英語で聞いてみた。

すると日本語でようやく英語公用語化否定論が出て来た。一つは、株主はほとんど日本人なのに三木谷さんの姿勢は失礼だという論だった。いっそニューヨークでやればいいだろうという人もいた。この意見はなかなか興味深い。お客様にあたる人が日本人だからということだ。

多分、三木谷さんはニューヨークでも発表会ができるだろう。海外に出ると萎縮する人も多いだろうが、彼はハーバードでMBAを取っているので、きっと発表会くらいラクにこなせるだろう。この発表会は宣伝効果が高かったものと思われる。外国人の役員を取り揃え、国際企業であることをアピールしつつ、あまり有益とは思えない国内のプレスを萎縮させて「下らない質問」が出るのを抑えることができるからだ。

例えば、政治家もぶら下がりを英語で行えば、下らないプレスを排除することができるだろう。ついでに国民にも、あまり政治家の意思が伝わらなくなるが、論理的な政治ができるようになるかもしれない。

さて、Transnational Management: Text and Casesによると、企業が国際展開するときにはいくつかのフォーメーションがある、とされる。一つは中央集権的な日本型だ。本社が全ての権限を持っていて支店は本社に従うだけだ。この意味ではアメリカ型も日本型に似ている。イノベーションは本国で作られる。iPhoneはアメリカ型企業で作られる。

ここまでの企業体では、本社機能が意思決定に重要な権限を持っている。故に「本社がどのような言語、文化で運営されるか」ということは重要な要素だ。そこには「支配言語」といえる概念がある。一連の英語に関する議論は、この日本型かアメリカ型の企業経営を暗黙のうちに念頭に置いているように思える。加えて「相手市場に打って出るには」というセールス型のマインドセットも見られる。「それでは中国に打って出るには、社内公用語を中国語にするのか」といった具合だ。

加えて、明治維新以来持っていて、第二次世界大戦の敗北で決定的に培われた「日本語はなんとなく劣っているようだ」という気持ちが加わる。英語化議論が起こるのに中国語化議論が起こらないのは、東洋の言語はなんとなく劣っているからだという印象があるからだろう。

さて、これに対して、ヨーロッパ型は別の特徴を持っている。イノベーションセンターが各地にあり、ここが網の目状に結ばれている。例えば4つのセンター(ミラノ、パリ、ロンドン、ベルリン)があれば、結びつきの数は6になる。するとミラノには、フランス語、英語、ドイツ語を話すスタッフが必要だ。ここに東京オフィスが加わると結びつきの数は飛躍的に増える。各地に日本語スタッフが必要になり(これで4つ追加)、日本には4カ国語のスタッフが必要になるからだ。こうして結びつきの数は増えて行く。

これを数学的に解決するためには、スタッフの共通言語を決めればいい。例えばイタリアの企業であっても英語を採用する場合が多い。すると必要な言語の数は、多国籍展開している企業ほど少なくすることができる。これが英語を採用する理由だ。

さて、ローカルにイノベーションセンターを作るのはどうしてだろうか。これには2つの理由がある。現地の顧客と接する事で新しい発見をするというのが1つ。もう1つの理由は現地の優秀なスタッフを雇うことができるからである。こうして各地の結びつきを緊密にすることで、イノベーションが起こりやすくなる。

かつては食品会社や洗剤のメーカーなどがこうした多国籍企業の代表選手とされた。現在ではZARAやH&Mのようなアパレルも各地のトレンドを織り交ぜつつ、いま売れそうな洋服をすばやく開発する体制を整えている。

グローバル化が推進されたのは、こうした「イノベーション」に加えて、安い労働力を求めて工場を海外移転したからだった。これは、トランスナショナルマネージメントの時代にはなかったコンセプトかもしれない。しかも多国籍展開が当たり前に行われるようになると、多国籍企業展開をモデル化して研究する人はあまりいなくなってしまったようだ。すでにそれが当たり前に行われているからである。

英語公用語化の議論で気になるのは、こうしたイノベーションに対する側面が忘れられ、従ってローカル言語の必要制が議論されなくなって来ている点だ。この場合のローカル言語は日本語だ。どうしても日本型(もしくはアメリカ型)企業が前提になっているので、本社機能の話ばかりがでてきてしまうわけだ。

議論の途中で、株主が出て来たように、企業は本社だけで運営されているわけではない。途中「ローカルの人材が採用できなくなる」(これは実際に外資系企業ではよく起こることだ。英語ができないというだけで、優秀なエンジニアを採用できないというのはよく起こることだからだ)という意見までは出て来たのだが、ついに「顧客」について分析する人はあらわれなかった。

実際に必要なのは「日本語」と「英語」が両方できる人材が現れて、各地にある人たちと連係する企業体作りだ。故に本社機能で働く人たちは英語を話す必要がでてくるかもしれないが、全ての人が英語を話す必要はないわけである。しかも英語を公用語にするのは、アメリカに向けて企業を開くことが目的なのではなく、多国籍からなるコミュニケーションをうまく統合する必要があるからだ。例えば韓国人と日本人が英語で話すとき、必ずしも英語の論理で話す必要があるとは思えない。ましてや日本人しかいない企業が英語を公用語化するのはどうしてなのだろうか。

こうした非論理的な議論が展開されるのは、この議論が日本語で行われているからではない。今回はTransnational Managementの理屈を少し使ってみたのだが、共通するフレームワークがあれば、論理的な議論が展開できるだろう。思い込みと信じ込みから成り立つ議論を、共通のフレームワークがないままに展開するから、議論が非論理的になるだけなのだと思われる。

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