私とあなたを区別しない親密な関係とその副作用。

昨日、話の途中で、日本人は相互依存的な親子関係を作るのだと書いた。これを「甘えの構造」と言う。ここでは甘えは肯定的な意味合いを持っている、英語にはないので「amae」という単語がある。甘えとは、全てを肯定的に受け入れた状態を指すそうだ。例えば、孫が遊びにくると、子どもを中心に呼び名が変わり(お義母さんは、お義父さんからも「おばあちゃん」と呼ばれるなど。)孫が何をしても「いいよいいよ」となる。「ああ」と言えば、適当に類推して「これが欲しいの?」などとなる。まだ何も言っていないのにお菓子が出て来たりもする。

先日放置されてゴミの中で亡くなった子どもの裏側には、何でも受け入れてもらえて、気持ちを類推してもらえる子どもがいるわけだ。

もちろん、子どもがお菓子が欲しいのかどうかは分からない。大人が自分たちの経験から「おなかが空いているのではなかろうか」と感じているだけである。しかし、子どもが小さいとき「自分が何を欲しているか」ということは明確に分からない。だから目の前にお菓子が出てくると「ああ、うれしい」となり、結果的につじつまがあうわけだ。

このことは、甘えの構造では周囲が知っている以上のことは起こらないのだということも言える。いずれにせよ。最終的に相互依存的な関係ができ上がる。この空間は居心地がよい。言わなくても分かり合えるからである。家族関係が企業に拡張されることがある。「言葉が分かり合える、家族的な経営」というわけである。

分かり合える家族には2つの弊害がある。一つはそれが得られないと「自分が何か悪い事をしたからではないか」と考えてしまうことだろう。特に世の中が変化すると、子どもは知っているのに親が知らないということが増えてくる。すると分かり合えなくなる。親は自分の経験から規範を作り上げるのだが、基礎になる経験がずれると「分かりあえる家族」はなくなる。

この環からいち早く抜けたのが父親だった。父親は家を離れて企業社会で家族的な価値観を作っていた。残された母親と子どもが消費の中止になったのである。(添付した記事によると、父親が家庭に戻って来ているのだそうだ。自分の趣味の延長を家庭に持ち帰って、子どもと一緒に楽しむということらしい。飲みニケーションよりも子どもだそうだ)どうやら経験する時間の多寡が親密度を作り上げているということなのかもしれない。また、企業の中に正規と非正規ができてしばらく経ち「家族的な企業」がなくなって来ているということかもしれない。

親と親密な関係を作れなかった人たちは自分たちで集る。渋谷のセンター街に夜集るのかもしれないし、ネットに居場所を見つけるということもあるだろう。しかし基本的な関係を築く能力に自信が持てないと(これは「コミュニケーション能力」とひとくくりにされることがある)そのまま犯罪にまで至ってしまうケースもまれにではあるが発生するくらいだ。「ネットで無視された」人が秋葉原に行き大勢の人を殺した。

さて、もう一つの問題は、親密な関係を持っている人が、そうでない関係に入れなくなるという事態だ。日本人は内向きだという声を聞く。もともとは欧米系の外国人が使っていたようだが、最近は日本人同士でも使うようになった。中高年は若者は内向きだといい、中高年の経営者は外国人から同じようなことを言われている。日本人はどんな世代であっても分かり合える環境とそうでない環境を区別して生きている。

このようなことはアングロサクソン系の文化では起こらない。子どもを分離して育てる伝統があるからだろう。子どもは早いうちから独立した人格として育てられ、何が欲しいのか明確に主張することを要求される。日本流にいうと「甘えのゆるされない」社会だ。アメリカに留学した人は、こうした文化を受容する。この他にアカデミックライティングという論理的に書く技術を教わる。英語でものを書くと「論理的」になるのはこのためだ。

だから、日本人が英語で話をしても、そのままで論理的にはならない。多分「英語を公用語にする」企業は、「英語でものを考えられる人の方が出世する会社を作りますよ」と言っているのである。多分、英語で教育を受けた(それはアメリカ式かイギリス式の教育システムを経験したということだ)人の方が有利な世界だ。あまり考えたくないことではあるが、日本の大学が丸ごと企業から切り離されるということも起こるかもしれない。一瞬にして大学の証書が無効になるかもしれないということだ。

共通する体験が消失すると、集団が細切れになる。最終的に細切れになった集団が「孤立した個人」だ。この「孤立した個人は」、個人主義社会の個人とは異なっている。同じように都市の住民が孤立したのだという主張はアメリカの1960年頃の社会学者の間にも見られたのだが(孤独な群衆)。唯一の違いは、自分たちを伝える技術の差かもしれない。

しかし企業社会の変化は一時的なものである可能性もある。80年代には「日本に学ばなければ」とか「アメリカの製造業はもうおしまいだ」という時代があった。結局、品質管理技法をマニュアル化することによって生き残る。危機感が「他者から学ぼう」という気運を生み出したのだと考えられている。

つまり、重要なのは、以前からある劣等感に苛まれる(だから日本人は非論理的でダメなのだ)だけなのか、積極的に学ぼうと思うかという違いだといってよい。アメリカの場合は「自分勝手だ」とか「労働組合が強すぎて権利ばかり主張するのだ」というようなことが言われた。

どう子育てするか、どうやって人間関係を築くかということは社会によって規定される。故に変わりにくい。企業環境、通信事情、消費などは移り変わるのだが、子育ての基本はあまり変わらず、この不整合が様々な問題を引き起こす可能性があるのである。

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