どうして新卒一括採用はなくならないのか?

企業の新卒採用が問題になっている。論者によってはメリットとデメリットを並べたりして、なかなか大変だ。しかし、この慣行、少なくとも先進国(欧米+日本)で見ると、日本だけの習慣だ。もしメリットが多いのであれば、きっと日本は一人がちなのだが、そうはなっていない。もともとの問題は日本に成長産業がなく就職口そのものがないことだと思われるので、実はあまり重要ではないような気もする。ただ、知的パズルとしては面白い。

もともと東京大学は「帝国大学」として開設された。1877年だそうだ。wikipediaには「欧米の制度に倣い」と書いてある。近代国家になるんだから、うちも大学くらい持っておかないとねというわけかもしれない。その後京都大学をはじめ、各地に帝国大学が作られる。最終的には台湾とソウルにも学校ができた。

「月給百円」のサラリーマン?戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)によると、昭和初期に恐慌がおきる。大学は出たけれど…という映画が作られたのが1929年だ。現在は経済が「グローバル化」したと言われるが、このころも世界経済はつながっていたわけだ。結局政治はこの問題を解決することができなかった。政党の状況はいまと似ているとも言われる。結局問題を解決したのは「外地」だった。結局軍隊は中央から制御できなくなり、その後、勝つ見込みのない戦争に突入する。

現在も「内需は拡大しないから、外国に出かけて行き稼ぐべきだ」という議論がある。その為に英語を話すべきだというロジックだ。素直に考えるとそのまま日本を離れてしまいそうだが、こうした論者の中には、この企業がそのまま税金を日本に払い、日本人を雇ってくれるに違いないと漠然と信じている人もいるのではないかと思う。考え方が戦前と似ているのは面白い。大きな違いはかつての日本が国際協調の枠組みから外れていたのに比較して、いまの日本は国際的なルールの枠内にあるということだろう。

さて、前置きが長くなった。企業採用の目的は、企業の活力を維持するために「優秀な人材」を採用することにある。この優秀なというのが問題だ。「大学全入時代」と言われるようになり、大学卒業生が、優秀であるというシグナルにならなくなった。だから、大学生が余るようになったのだというロジックがある。もしその通りであれば「高校卒業でも採用される人」がいてもよさそうだ。大学がありふれたものになったのであれば「大学院でなければ採用しない」という企業もありそうだ。しかし現状はそうではない。来年の3月に卒業する人たちは10万人が就職しないかできないとされている。留年も10万人になるだろうということだ。彼らが留年するのには理由がある。大学を卒業した時に仕事がないと「非正規雇用組」として分類されることになり、一生賃金差別を受ける。

インドにはカーストという制度がある。もともとは人種差別政策のようだ。インドにはもとから住んでいた肌の色の黒い人たちと、イランから入って来たちょっと色の白い人たちの層がある。支配する人たちは「我々は前世でいいことをしたから支配する権利があるのだ」と主張する。支配される人たちも「前世の行いが悪いから」と納得する。

「前世が悪い」と言われると否定のしようがない。この行いが悪い人たちの救いは「現世でいいことをして、来世に生まれ変わる」ことだ。

実際には、カーストという分かりやすい制度はないようだ。被差別カーストと最高位だけが際立っていて中位の人たちは割と混沌としているのだそうだ。ダリットと呼ばれる被差別カーストがある理由は簡単で、ゴミの片付け、洗濯、排泄物の掃除(本当にトイレを流すことをシゴトにしている人たちがいる)などに従事する人たちが必要だからだ。

大学新卒者を「カースト」に例えてみると良くわかる。日本が明治維新を経て近代化したとき、生まれによる差別は少なくなった。もともと明治維新が下級武士の革命という側面を持っていたからだと思われる。海外から諸制度を取り入れて新しい支配層を作ろうとした。支配者を育成するのが帝国大学だ。指定の大学を卒業した人が指導者としてエントリーされ、その後の競争に参加する。政府の場合は東京大学だし、各企業はそれぞれの指定校を持つ。

この制度は、大学入試で優れた人をスクリーニングして採用するという意味では新しい活力を取り入れることができる制度だったのだろう。加えて、一旦この枠に入った人たちに一定の権限を与える。加えて、ネットワークのもたらすよい影響もある。ある程度共通したアカデミックなバックグラウンドがあり、学校の人脈を通じて一体感を作り出す。カースト制度が「前世で悪い事をしたから」というのと同じように「一生懸命勉強しなかったからだ」ということで、下層の人たちを使うこともできる。

日本では世襲制はうまく機能しないようだ。血族による団結が重要視される中国や韓国と違い、養子を通じて優れた従業員に後を継がせる制度が発展する。政治家のように、世襲しか継げなくなると、さまざまな弊害が出てくる。大学を通じたスクリーニングはこの弊害を減らす優れた制度だったといえるだろう。

多分指定校による新卒採用にこだわるのは、学閥を持っている企業だろう。こうした企業と取引がある会社も「今年は東大から一人採用しましたよ。そういえばお宅の専務さんも…」というような自慢をするかもしれない。こうした企業が採用を控えると、下層の仕事をさせる人から採用を控えるだろう。

この人たちは大学院を出た人たちを使わないだろう。自分たちの格が崩れるし、そもそも共通のバックグラウンドがないので使いこなす事ができない。

もし仮にスタンフォードの大学院を卒業した人が社長になっている会社であれば、別の採用方法をとっているはずだ。例えば英語を社内言語に指定した三木谷さんは、一橋を経てハーバードのMBAを卒業している。彼が国際企業を指向して社内言語を英語にするのは当たり前だともいえる。加えて、一橋とハーバードを経験しているわけだから、みずほ銀行での経験も加味して、日本語=論理的でない、英語=論理的と考えるのも当然だといえる。父親ははイェールで客員教授をしていたそうだ。(以上Wikipediaによる)

インドのカースト制度が崩壊するために有効なのは、新しい産業を起こすことだ。例えばIT産業はカーストの影響を受けない。一方、有名大学の新卒採用から脱却できないとすれば、それは日本経済のプレイヤーが入れ替わっていないことを意味するに過ぎない。

政治家からは卒業後3年間は新卒扱いにする制度を作ろうという提案が出る。識者たちはいろいろな分析をしている。しかし、プレイヤーが入れ替わらないうちは、古い採用制度がなくなることはないだろうと思われる。

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