シンプル族の反乱を読んだ。「下流社会」の三浦展の著作。
ステレオタイプ化した若者論では「無軌道で個人主義的な若者」像が一般的だ。こういった若者論は、その当時の若者達が持っていた悪い像を現在の若者に投影しているに過ぎない。実際の「若者」たちは、いくぶん様子が違っているようだ。もともと可処分所得が低くなり、見通しが経ちにくくなっているので、大きなものは消費できない。小さなこだわり型の消費が際立っている。
いろいろなデザインが氾濫すると、かえってシンプルなものが欲しくなる。そうしたブランドの代表とされているのが「無印良品」や「ユニクロ」といったブランドだ。「たくさん持っている」よりも「賢く選んでいる」方がよい消費者だと考えられているのは、そもそも選択肢が多くなっているからだろう。
それにも増して目立っているのは「家族」や「友達」といった身近な集団に対する依存だ。多分「依存」だとは感じていないだろうが、こう思うには理由がある。いわゆるバブル世代といわれる私たちは戦後の個人主義がいちばん浸透した世代だった。自分のやりたいことは自分で選ぶと考えている。こうした価値観は、上の世代から見ると個人主義=わがままと見られる。下の世代からみると孤立していると感じられるのかもしれない。
マーケティングの観点から見ると「個人に働きかける」よりも「みんなが持っている」と言った方が通りがよいし、マスマーケティングを通してメッセージをばらまくよりも、多くの人に多様なチャネルを使って浸透させたほうがよい。見知らぬ他人に薦められるよりも、家族の推薦の方が影響力が強い。
さて、こうした集団主義はたいてい「伝統」と結びついているはずだ。集団主義の規範は伝統によって一つに形作られてゆくはずだからだ。しかし、戦後の日本人の持っている規範は大きく変容した。一番端的に現れているのが、葬儀とお墓だろう。家族墓が個人墓になったり、マンション形式のお墓ができたりしている。本来の集団主義社会では「こういうときにはこうするべきものなのだ」という規範があるので、個人があれこれと選択する煩わしさはないはずだ。もはや「どうあるべきか」ということは分からなくなっている。その中でいろいろな選択を迫られるわけだ。菩提寺がない人も(あるけれど分からなくなっている人も含めて)多い。
もし本格的に集団主義に戻るのであれば、こうした伝統を再構築しなければならない。そこには選択の余地はない。しかし、余地のなさを不自由とは感じずに「確実さ」と結びつくはずだ。しかし、昔の形式に戻りたいと考えている人はそう多くないようだ。ということで、いろいろな形式の斬新な弔いの形態が出て来ている。一部の人たちは、もっと大きな伝統と直接結びつこうとする。しかしこうした「新しい保守」の人たちも、家族の伝統の中に生きているかというと必ずしもそうではないかもしれない。例えば靖国神社には参拝するが、地元の氏神が何なのか分からないという感じだ。
こうした人たちにとって「近所の祭りには必ず参加し」「家族の間に決まった行事がある」といった仲のよい家族は希少なものだ。結局人は希少なものを高価だと感じるわけだ。
いま起きていることは2つの違った方向性が混じり合った結果のようだ。一つは「みんなが持っているもの」「周囲が持っているもの」はよいものだろうからという価値観だ。作り手の側も「よく売れるものばかり」を作ろうとする。しかし、一方で消費者は「希少なもの」を埋めようと考える。お金を出せば何でも買えるのだということになれば、情報力を駆使して貴重なものを探そうとする。近所のスーパーマーケットで豆腐を買わずにわざわざ遠くから取り寄せたりもする。
この本は、今ある現実をなんとか説明しようとしている。状況はかなり混乱して見えるので(調査過程は別にして)こうしたレポートは一読の価値がある。そして多分購買動向を見ることで、人々が何を希少と感じているかが少しだけ見えてくるのである。
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