また軽井沢に民主党のエラい人たちが集って、次の党首を誰にするかでモメている。というより楽しんでいるように思える。鳩山さんのシャツが相変わらずバブルっぽい。きっと随分昔から変わっていないんだろうなとも思える。
さて「辞めることが責任の取らせ方だ」という考え方が社会に蔓延したのは1990年代後半のリストラ期だった。本来再編成という意味合いだが、経済の縮小期に当たっており、再編成というのはすなわち切り捨てを意味した。一応、金融サービスやITといった新しい産業にも手を出してみたものの、ここを埋めたのは新しく出て来た「訳が分からない」人たちだった。その内新規産業への進出にはあまり積極的ではなくなってしまった。
日本社会はもともと減点社会だ。この場合最初に終身雇用が権利として与えられている。シゴトの安定という意味合いがある。これが与えられている間、相手に対してもシゴトの安定というカードを認めることになる。いったんこれが崩れると日本人はこれを受け入れる。代わりに相手にも職業の安定というものがないものと見なすようになる。ピアプレッシャー(仲間同士の監視)が強いので、自分に認められない権利は決して認めようとしない。
もともとリストラは、細った収益で生きて行くために、弱い人たちを追い出す「口減らし」だったのだが、それでは具合が悪いので「あなたには実力がない」「別の所で生きて行った方が幸せになれる」という実力とポジションを結びつける考え方が生まれる。この考え方は政治の2つの側面で生きている。まず、シゴトの安定が保証された公務員が官公庁を渡り歩く行為を赦さなくなった。リストラ前のサラリーマンも同じようなことをやっていた。そしてもう一つが首相のようなポジションに対して「実力がないとさっさと変わるべきだ」という世論だった。これは間接的だ。この下層には「有権者に飽きられると、さっさと交代させられる」代議士の存在がある。その結果が自民党3代、民主党2代の首相交代劇なのだといえる。どうやら1年に1度というペースすら怪しくなって来ている。本当に3か月に一度首相が交代する社会が出現するかもしれない。
これを復活させるためには、1対1の交渉ではだめだ。集団の取り決めが必要なのだ。取り決めは制度への参加が前提になる。というと分かりにくいのだが、公共工事の談合がこれに当たる。価格を安定させましょうねと約束するだけではだめで、「次はあなたにしましょう」というような非公式の打ち合わせが行われているはずだ。ここに出席しないことは、枠組みから排除されることを意味している。逆に談合が表沙汰になるのは、排除された人たちが通報しているからなのだろう。縮小して行く社会には「元関係者」が増える。
この社会の問題は、我々が二つの道具箱しか持っていないことだ。談合と排除だ。ここから抜け出すのはとても怖いことだが、談合体が縮小すると実質的に排除者が増えるので協定そのものの意味がなくなってしまうわけだ。
我々が変わらず、これを乗り越えるためには、全体の協定を復活させることが有効だ。日本の政党は利益配分の為の共同体なのだが、もはや借金をするか、他の誰かから奪ってくる以外には利益配分はできない。
となると、一つひとつ新しく協定を作る方法を模索するべきだということになる。減点社会の反対は
「加算社会」だ。もともと減点社会は日本に特有というわけではなく、限られたリソースを使うために適したルールだ。たとえば井戸の不正利用者に制裁を加えるといった時には減点社会は有効だ。
加算社会は拡張を前提にしている。しかし、一つひとつの権利に対して「クレームをつける」(自分に権利があると主張するという意味だが、もはや適当な訳語すらない)社会への転換はなかなか難しいだろう。基底文化がかなり異なっているからである。