まず、小沢さんと菅さんに割れる民主党を見ながら「自身のやりたいことが分からない集団や個人」が困難に直面すると、深刻な人格上の問題が出てくるだろうということを確認した。「自分のやりたい事」は明確だろうと考えられるのだが、それを邪魔するのは長期的な展望と社会性ではないかと考えた。昨日のトピックはちょっとした気の迷いといってもよいのだが、職業を決めるにあたっても「生産性」を越えて行かないとならないのではないかと考えている。個人の意思と社会の意思のどちらを尊重するのかということには揺れがある。実際にモチベーションにつながるのは個人の意志だ。
現在北朝鮮では新しい政権にむけて「正当化」が始まっているといわれる。血族の伝統に立ち返り、血統による権力踏襲が「中国に承認された」というような印象を与えるのがねらいなのだそうだ。民主的な選挙に寄らないのでこうした作業が必要になる。この後、朝鮮労働党の承認作業が必要になるだろうということだ。「実績」をあげなければ、やはりだめということだろう。
日本は民主主義国家ということになっている。故にこうした権力正当化の作業は必要がない。しかし今回の民主党代表選挙ではこうした「正当化」の作業が必要になりそうだ。日本国民には選挙権がなく、民主党が政権を取った選挙から1年以上経っている。これから選挙権がない選挙を13日間も見せられるそうである。それを聞いただけでうんざりしそうである。
小沢さんは、出馬表明で熱烈な支持者である国会議員を集め(一応、この人たちは国民の代表である訳だが)みなに祝福されている様子を演出した。菅さんと並んだ記者会見では、いっしょうけんめいに「国民」という言葉を使った。国民主導にはいろいろな使い方がされていたが、私たち=国民ということになっているようだ。
国民という言葉には実態がない。故に官僚も仕事をするときに「国の為にやっている」と考えているはずだ。小沢さんの「国民主導」は、官僚が決めないで、私たち(つまり国民の代表)が決めますということを意味している。限定性のない言葉をみながバラバラに使っているので、どこかで矛盾が出てくる。
実際の国民は何を考えているかというと、小沢さんが首相に相応しいと考えているヒトは20%にも満たない。ここでいろいろな正当化の努力が必要になるだろう。もしくはそうした声を無視して「認知的不協和」の解消につとめる方法も考えられる。声が大きくなり、理論を振りかざす。そうしているうちに陶酔感が出てくる。
ヒトが冷静になっているとき、こうした陶酔感を冷静にみることができる。しかし、危機的な状況に接するとこうした陶酔感と一体化してみたくなるかもしれない。これが実に危険そうだ。人間が空虚さに接すると誰か他の人たちの目標や高揚感を自分のものにしたくなる。
人格を社会的に拡張できることは、人類の優れた特質だ。しかし、結果として「誰のために、何をしているんだっけ」ということにもなりかねない。みんなの為に何をするというのはとても危険なことなのだ。それは、みんなのことは私が良く知っている。故に私に従うべきだという理屈が成り立つからだ。しかし、実際には他人のことを知っているかどうかは分からない。常に他人の動向を気にするようになるかもしれないし、回りのヒトを代表させて「私はみんなのことを知っている」と思うかもしれない。ひどい場合には、本当に他人が何を考えているか分からかったのだということに気がついてしまうかもしれない。
一方、ヒトが何を考えているのかを慮り分裂に陥ったヒトも民主党にはいた。関係者の話を聞き、話を聞くたびに何が何だか分からなくなり、結局最後に聞いた声をそのまま口に出してしまう。その度に政権は大騒ぎになった。お金の心配をしなくてもいい理由で純粋に話を聞いたヒトもいたし、しっかりした基盤がないのでなんだか純粋話を聞いている風には見えないヒトもいる。
こうしたことが今まで問題にならなかったのは、日本社会が非公式なルートを通して意見を集約する社会的な慣習を持っていたからだと考えられる。コンセンサスのパイプラインができていて、国民の声=代議士の声=小沢さんの声という集約経路があったからだろう。これが崩れた理由は注意深く考察する必要がある。しかし、今回の代表選挙を見ていると、その理由の一部が分かる。それは、情報が即座に伝わるようになったからだろう。意見の集約にはある程度の時間がかかる。しかし国民と中枢部がダイレクトにつながってしまうとこうしたコンセンサスができ上がる前に情報が拡散をはじめる。多分、こうした状況に政党が付いて行けなくなっているのではないかと思われる。
これに複雑さが加わると、今まで私たちの集団をまとめてきた「他人のために尽くすのだ(ただし自分の意見もちょっと混ぜてね)」というやり方が成り立たなくなる。政治は今、国際的な状況に大きな影響を受けるようになった。現在円高が進行中なのだが、基本的には日本の当局とは関係のないところで意思決定された結果を、日本で処理しなければならないという状況だ。意思決定の方法がダメージを受けると、我々の社会は思考停止を余儀なくされるだろう。