実感がない学習は楽しくない。楽しくない学習を続けているとどんなことが起こるのか。実際に起こったケースをもとに考えてみる。
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これまで新しい何かを学習する過程について考察してきた。積み残しは、そもそも人はどうして何か新しいことを習得したいと思うのだろうかという疑問だった。実際にやってみると分かるのだが、習得そのものに何か人を夢中にさせる性質がある。実際にできたと思う瞬間よりも、過程のほうが楽しかったりするのだ。こうした「実感」は言葉では説明しにくいのだが、確かに存在する感覚だ。

さて、意欲についていろいろ書いて、残りを埋めようと思っていたのだが、面白いニュースを見かけた。学校の先生が「壊れて」いるということ、いくつかの事例を挙げて特集している。教壇で盗撮という人もいるのだが、この中で出て来たのが「殺人を題材にする授業やテスト」というものだ。杉並では小学校3年生の女性教諭が、殺人を題材にしたクイズを出題し、保護者の指摘で知った学校側が謝罪している。

我々の社会の規範意識は硬直化している。そもそも「道徳」というと、たいてい何らかの正解を押し付けられることを意味している。だから、押し付けられる側は、道徳を学校で習うことに拒否反応を示すことで対抗する。多分、インターネットで「正しい規範」ということを言おうとしたら、かなりバッシングされるに違いない。

「正解は『殺す』」の何が不適切なのかという、この事件について論評している記事を見つけた。いくつかのソリューションがあるべきなのに、正解を押し付けることが問題なのだ、と考えているように読める。悪い情報にも触れるべきなのだとも言っている。殺人をことさらにタブー視する必要はないだろうということである。

ところがこの話、意外な展開を見せる。どうやらこのクイズ、サイコパスをスクリーニングするためのテスト(かもしれない)というのだ。ここがネット集合知の面白い所だ。もしこれが真実だとすると、かなり意地悪い読み方をすることが可能になる。この女性新人教師はサイコパス(ちなみに今はサイコパスとは呼ばないそうだが…)であり、杉並区はこれをフィルタリングすることができなかった、ということになる。そして保護者からの匿名の連絡によりこれが発覚し、マスコミに広められることによって問題になったというわけだ。

関係者は誰一人として自信をもって「小学校ではこういう規範を教えるべきだ」とは言えない。だからこそ匿名になるわけだ。そこでみんなが騒げば「これはまちがっていた」ということになる。もしかしたらこのまま隠蔽されてしまうかもしれず、従って誰かがマスコミに連絡をする。そこで「大騒ぎ」になる。学校側は「謝罪すること」でこれを納めようとするという図式である。

何が正しくて、何がまちがっているかという基準は人それぞれなのだが、社会がまとまって行く上では、とりあえず「仮止め」された常識のラインが必要だ。しかし、聖典が定めてあるわけでも、wikipediaに書いてあるわけでもない。我々がうすらぼんやりと「小学校で先生が殺人を正解というのはまずいんじゃないの」と実感しているだけなのだ。

この問題、医師が問診時に聞けばサイコパスのスクリーニングに用いることができるだろう。医師と問診者の間にはある社会的な関係が成り立っている。しかし、これが仲間内での面白クイズになると話は変わる。「殺しちゃうのー」「わーキモイ」といっている間は彼女たちはサイコパスではないだろう。(キモいという実感があるからだ)しかし、同じ仲間内でも、本気で「何かの望みを達成するためには殺人も選択肢になりうる」と考えている人たちが真顔で話し合っているとしたら、これはサイコパスかもしれない。もしかして、学生が仲間内で盛り上がっているときに「え、どうしてこれがキモいの」と密かに考えている人がいれば、この人もスクリーニングはできないにしていも反社会的な要素を持っていると考えられる。

つまり問題の出典がどうかということよりも、どういう状況で話し合われたかという事が問題になるわけだ。これを突き詰めて行くと、国際紛争の解決の為に国民の何人を殺してもよいかという点に考察が及ぶだろう。故に殺人を問題解決の手段にするかどうかというのが、そのまま反社会的だと認定されるわけではないのである。一般的にサイコパスとされる人は戦場で人を殺してもあまり苦しまない。一方、自分が人を殺すことを想像しただけでうなされる、あるいは実際に戦場で敵を殺してしまうとトラウマになる人もいる。

ラインがどこにあるかと考える。それは「実施を前提にして話をしている(あるいは可能性として織り込むか)か」という点にあるだろう。実感を持っているか、あるいはその行為に及ぶところを想像してみるかということである。論理的に考えられる問題のようにも思えるのが、よく考えてみると論理では図りきれない実感が存在するわけだ。

この先生が越えてしまったラインは、この仲間内の面白クイズを生徒にしてしまった点にある。先生と生徒の間には社会的なつながりがある。生徒は先生に言われたことを額面通りに受け取ってしまう可能性があるし、これが「面白クイズ」だと思わない可能性もある。受け手がどう思うかは実はよく分からない。

さて、この先生は実感のラインが曖昧になってしまっているわけだが、そもそもの動機を「授業を楽しくしたい」と考えていたようだ。仲間内のうちとけた雰囲気を持ち込めば「楽しくなるだろう」というのが彼女の実感だったのだろう。一連の考察を振り返ってみると、何かを学ぶ事はそれ自体が楽しい経験だ。しかし、それは自分から意欲を持って取り組む時だろう。この先生にはこうした経験はなかったのかと考えると、この先生一人を糾弾してすむ問題ではないことが分かる。学校の勉強は、与えられたカリキュラムをただ単にコピーしてゆくだけだ。先生はコピー機械と同じ扱いなのかもしれない。これは、あまり楽しくない。そして、何かを習得する事が楽しいかどうかは実践してみないと分からない。

受け止める側の問題はさらに深刻だ。誰1人として自分自身の実感として「こういうことは子どもに教えてほしくない」とは言わない。規範が明確でなく、話し合って社会規範を合意する能力も失われつつあるようだ。こっそりと話をして、回りの反応をうかがう。集った保護者たちは、なんとなくこれはまずいなと思うのだが、それを説明することはできない。結局「騒ぎになったから」考えるのをやめて、とりあえず謝ることしかできない。

この問題を道徳の問題と捉えると、そもそも社会規範をどう形成して教えるかという問題になる。小学校では、倫理観について普段から考察している教師が、倫理的にコンフリクトする問題を「正解を与えずに」提示することが重要になるだろう。そもそも正解がないのだが、社会生活上(たとえ仮止めであっても)合意に達する必要があるということだけでも知っておくのは重要だ。

これを学習の問題と捉えると、そもそもこういう訳の分からない面白クイズを導入しないと授業が楽しくならないのだと考えてしまった原因を探るべきだろう。教える側もうんざりしながらただ知識をコピーしているとしたら、社会的にはかなりの損失を生み出していると考えてよいのではないか。意欲なしの学習は長続きしないのである。


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