それは、個人の良識から生まれた行動が社会を変えるとは信じられていないから
Creative Mind on Facebook

2010.04.14追記:「日本」「デモ」「起こらない」でGoogleの検索トップに来たせいか、アクセスがあつまりはじめた。ネットからの情報によると、高円寺でデモがあったようだが、まったく報道されなかった。こうやって検索してくる人たちがいる所を見ると、誰かが騒ぎ出して状況が崩れるのを待っている人が多いのかもと想像したりする。

どうやら事態はかなり深刻なようだ。事故処理ができず、国際的な救援を検討しはじめたのだという。土壌にプルトニウムが漏れたという報道も伝わってくる。こんななかで、フクシマダイイチは、国際的な用語になった。「チェルノブイリ出身です」と聞くと、我々は悪気無く「ああ原発事故の」と思うだろう。これと同じ事が福島県の出身者に起こるだろう。空気と水が汚染された。健康には影響がないレベルだというがやはり汚染は汚染だ。ドイツでは原発反対のデモが起きている。世界各地でも見直しの動きが始まった。「日本を除いては」である。どうして日本では原発反対のデモが起きないのだろうか。

この問題、難問だった。具体性がなく良くわからない。ということで個人に置き換えてみた。どうして僕は原発反対のデモを組織したり、参加したりしないのかということである。まず第一に1人デモは避けたい。バカみたいである。家族や知人にデモを呼びかけるところを想像したが「個人で何かやっても届かないだろう」とか「どうしてあなたがやらなければならないのか」と言われそうだ。集団的な示威行為を通して世論に訴えるという文化はないわけである。

加えて匿名性の問題もある。「明らかにいいこと」への社会参加は広がっている。ネット上で寄付を呼びかけたり、行方不明者の情報をネット上で整理するボランティアなどもいるそうだ。「明らかにいいこと」の規範は明文化しないコードとして社会に組み込まれている。そしてこれは「喜ぶ人たち」の顔が見えやすい上に、作業を通じて連帯感も生まれやすい。つまり達成感も得られやすい。

しかし、原発反対はどうだろうか。東電に向けてデモをするのだろうか。それとも政府に抗議するのか。デモをやっても達成感は得られないだろう。こうした「ネガティブ」で「本当に効果が得られるかどうか分からない動き」は初動が難しい。そもそも「原発はどうしていけないのか」という理由づけが必要だ。あれ、どうして原発はダメなのかなあと、空気と水が汚されても我々は思うのである。日本ではネガティブなキャンペーンは匿名で行うのがキホンだ。デモに参加したからという理由で解雇されてはたまらないとかついつい思ってしまう。

さて、デモに向けての最初のモメンタムが得られにくいことは分かった。さて、たまたまデモが発生していて、そこに通りかかる。僕はそれに参加するだろうか。これもありそうにない。一つには日本のデモに特有の事情がある。日本人は集団を統制するのが好きだ。この統制はリーダーに押し付けられて広がるというよりは自律的に形成される。シュプレヒコールの上げ方、歩く速度などなど様々な指示が飛ぶだろう。政治デモには内輪の連帯感があり、ヨソモノを排除するような雰囲気もある。つまりオープンな市民のデモというよりは、「ある団体のデモ」という色彩を帯びやすい。集団が団結力を増すということは、すなわち排他性が強まるということでもある。これに参加するのはなかなか難しい。だけど、リードする方は楽しいだろうなあと思ったりする。俺の力でこれだけ動員したぜ!である。

だから、こうしたデモがあれば僕は「これ、共産党ですか、社会党ですか」と聞くに違いない。(社会党という政党が名前を変えたのは知っているけど)原発反対のデモは左派の人たちのものという認識がある。労働組合系かもしれない。左派=なんとなく「ヤバイ」感じがする。あまり関わりたくないなあと思ったりするわけだ。僕の出身大学は駿河台にあるのだが、文化部系の人たちは形式的にゲバ棒を持ってデモに参加させられていた。よく分からないけど、なんか怒っていて、不満を持っているものの、それを一方的に社会のせいにしているというイメージがある。おそらく僕の間違った偏見も含まれているに違いないのだが、とにかくそういうイメージなのだ。

ここまで出て来た要素をまとめる。どうやら、一人ひとりの良識を動機とした行動を通して現実が変えられると思わない。加えて、誰かが自己満足のために叫んでいるという印象さえある。個人の良識からの声がまとまって、一つの声になったと思えないのだ。


  • 個人のイニシアティブが重んじられない
  • デモを通じて世間(東電や政府ではなく)に訴えるという文化がない
  • 即効果が上がる運動でなければ参加者が集らない
  • ネガティブな行動は匿名で行いたいという風潮がある
  • 政治的メッセージを持った(僕が左派と思っている)集団に排他性が高い

原発推進派の人たちもムラを作っていたという観測が出ている。政府・産業界・学識者からでき上がったこのムラは、そのまま事態を統制できなくなっている。安心だと言って来たにも関わらず、対処できなかったのである。彼らのいう安全性はほどんとフィクションだった。原発を巡る悲劇の一つは推進派も反対派もそれぞれのムラを作って来た点にある。厳しい言い方をすれば、お互いにファンタジーの世界を生きて来たわけで、ここを1000年に一度という津波という現実が襲ったのである。それはお互いに現実を変えたり、歩みよってこれなかったという無力感の裏返しである。

コミュニケーションは不在だった。我々は現実を変えられなかった。結果、少なくとも1人の農業従事者が自殺した。今後福島近辺の農産物も海産物も売れなくなるだろう。震災を辛うじて生き延びた人たちが「あの時に死んでおけばよかった」という世界だ。これほど悲しい事は、そうそうあるものではない。

« 計画停電情報の混乱 | メイン | 原発に反対してみる »

記事一覧 :: コミュニケーションのその他の記事

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://keynotes.hidezumi.com/MT/mt-tb.cgi/4327

この一覧は、次のエントリーを参照しています: なぜ日本では原発反対のデモが起こらないのか:

» ふくいちライブカメラの指差しの理由 送信元 流水成道blog
8月28日の、福島第一原発のライブカメラに、指差しをする人が映っていて話題になりましたが、本人だという男性がWebサイトを公開しました。このサイトの人物... [詳しくはこちら]



Sponsor

Hosting provided by "Mercury Project Office Ltd."
Find all you need. Web Design, System, Consulting and More!